3.課題

~ 説明能力の不足を解消するには? ~

 どんな仕事でも「人を動かす」ことが最大の課題になる。そこには「北風と太陽」に例えるような方向性の違い 〜 強制力か自発性か 〜 があった。ぼくは一人でやれることの限界を悟ってからは、チーム全体の自発性を高めるアプローチに取り組んできたが、そこでも「説明能力」は求められてきた。

 自分の関心が「アナログからデジタル」そして「組織のマネジメント」に移ったのは「生産技術」という職種の経験が大きかったと思う。当時はまだ「サプライチェーン」と呼ばれていなかったが、製造ラインの全体最適化、各部門の情報システムを統合する構想などに触れながら、大企業病の症状を目の当たりにした。これには大きなショックを受けた。

 デジタルをテコに事業や組織を再起動させるには「中長期的なビジョン」が何より大切になるが、一方では目に見える成果を着実に、短期的に出すことも求められる。現場のマネジメントに強い自分への期待は「守りを堅める」役割になりがちだったが、並行して「次の種蒔き」も仕掛けておかないと、いずれ改善の効果が頭打ちになってしまう。

 団体競技には、自らシュートを打たなくても得点をアシストできる「司令塔」と呼ばれるポジションがある。そんな役割からチームに貢献していたつもりだったが、攻めと守りではアクションの原理原則、仕事の優先順位や哲学?が大きく異なっていた。両者の連動をうまくコントロールできなかった場合、司令塔は真っ先に「戦犯」にされるリスクを負う。

 ぼくには、異なるパラダイムを橋渡しできる「共通の言語」が足りなかった。特に、大きな絵を描いて成果が出るのを「待つ」ぼくのアプローチは、週次や月次の目標管理とのすり合わせが課題になってくる。定例フォローで「数字に甘い」と見切られてしまい、「待ち」のフェーズで梯子を外されてしまうことも少なくなかった。

 ぼくの方法論を批判(攻撃?)してくる側のパラダイムを理解しないことには、この分断を乗り越える術は見つからないように感じた。こうして、興味がありながらも後回しにしてきた専門外の分野(いわゆる人文社会系?)について、教養を深める必要に迫られた。

 正直なところ、何もかも手探りで途方に暮れた。単発の講座を受講して紹介された書籍に目を通してみたが、あまりにも無知だった自分に愕然とさせられた。某大学の通信課程に入学してみたが(いつもの悪い癖で)指定のカリキュラムに限界を感じてしまい、嗅覚だけを頼りによその学部の講座を聴講させてもらったりもした。

 共感できる概念や思想、それを提唱した偉人に出逢える歓びは大きく、理論武装の引き出しは着実に増やすことができた。ただ、何か決定的に信奉できるものが見つかったかというと、そこまでの手応えはなかった。むしろ知識が増えて現実の問題を多種多様に切り取れるようになるほど、言語化できるようになるほど、雲をつかむような感覚も広がってきた。

 こうして、自分の中に「もうひとつの知識体系」ができるにつれて、新たな観点が芽生えてきた。仮に、過去の自分の経験を「全くないもの」として、自分自身を「そちら側」の観点から眺めてみると、確かに「何を考えているかわからない」人間に思えてくる・・・。

 ぼくの評価が二極化してきた背景が、なんとなく理解できるようになった。